孤島の鬼 -咲きにほふ花は炎のやうに-

孤島の鬼―咲きにほふ花は炎のやうにーを観てきました。

感想をどこにあげるか悩んでいたのですが、はてブロと言われたのでここに書きます。

前作の孤島の鬼から約2年。今回演出が変わるとのことでどのようになるかと思っていましたが、演出が違うだけで、こんなにも違う作品になるのですね。だけ、という言い方は失礼とは思いましたが、同じ作品でこんなにも違うと感じたのははじめてで、とても驚きました。
もちろん、演者さん、セット、光、音、色々なものが違っていて、その全てが作用した結果“違う”作品になったものとは思いますが、咲にほふ孤島はおどおどしい空気と少しコミカルでポップな印象が融合した不思議な世界でした。

前作の孤島の鬼は、初日を観た後心がズン…と沈み、この舞台をあと何回観るのだろう…毎公演このような気持ちになるのだろうか…と、かなり気の滅入る舞台でした。舞台開演前のBGMのないしんと静まり返った会場で、電波がないため誰も携帯をいじることなく、ただ座って、前を見て、おしゃべりせずに開演を待つ。扉が閉まる時のプシューという音がもうすぐ始まる、という緊張感をもたらし、客席と舞台のライトが落ちた暗闇の静寂から私の語りが始まる。この、他の舞台にはあまりない空気が好きでした。

前作に思い入れが深いことが原因ではありますが、私は前作の方が好きでした。
今作には今作の良さがありますが、孤島の鬼として、江戸川乱歩の作品として観るのであれば、前回の重くのしかかる感じが、光が、無駄のないひとつひとつに意味のあるセットが好きです。

今作は、面白いです。
舞台上に横長の机をどっかり置くというのははじめてみました。机の高さも不揃いで、間に隙間が空いていて、上に乗ったり下を通ったり間をすり抜けたり。人を動かすことが好きな演出家さんなのでしょうか。SK商会の仕事シーンはなんだかダンスを踊っているようですし、シュッシュッと素早く動いてもきちんと揃っていました。なかなか無理のありそうな体勢での静止も多く、プルプルしてしまいそうなのにきちんと止まって涼しい顔で演技をしていて、さすがだな、と舞台とは関係ないことを考えてしまいました。でも別に膝を曲げた中腰の姿勢で演技する必要があるとは思えないシーンだったので、演出家さんの趣味なのでしょうね。ドエスらしいですし。笑
個人的に北川刑事の、間取りの説明のぬるっとした動きと、箕浦の名刺をバケツリレー形式に受け取るところが好きです。平井くんはいつみても目を奪われる動き、演技をしていて、観に行く舞台にいると嬉しい役者さんのひとりです。

秀ちゃん吉ちゃんの解釈がかなり違っていて、原作は淡々と書かれていたためどちらが正解ともいえないのだと改めて感じました。
前作の秀ちゃんは幼い子どもで、感情的で、自由になりたい、外に出たいと望み、吉ちゃんを嫌い、その行動に泣き叫び、抵抗する、強い意志を持った少女でした。
今作の秀ちゃんはとても賢い子で、現状を受けとめ、無駄な抵抗はせず、なんだか物語の身売りの少女のようでした。
もちろん今作も拒絶はしていますが、前作の、涙をボロボロ流し髪をぐしゃぐしゃにして叫びながらのた打ち回り、客席をじっと睨みつけ訴える姿が目に焼き付いて離れないのです。
凛ちゃんは泣いている人を見ると気持ちが特に入るのかわかりませんが、泣いているとものすごく目が合いました。レッドシアターの最前列は自分と舞台を遮るものがない、その世界の一部のような気持ちで観劇が出来ますが、前作は泣いていると目が合う人が多かったです。鯨井さんもそうですね。
前作の孤島は何度見てもボロボロに泣いてしまったので、少し恥ずかしかったです。
否定をするわけではありませんが今作は全然泣きませんでした。泣けないわけではないのですが、泣き所があまりないといいますか、気持ちが入る前に次のシーンにいってしまうような、間がないというのでしょうか。前作は演者側も泣いていましたが、今作は泣くというより怒る描写が多いように感じます。

友人と私は、ほしのくんの吉ちゃんが秀ちゃんを守るように、相手を睨みつけながら秀ちゃんを後ろから抱く様子をガーディアンと称しましたが、ガーディアンというには足を引っ張りすぎですね。その時の秀ちゃんはまるで人形のようで、感情が見えなくて、前作の秀ちゃんは箕浦に恋をしていましたが、今作の秀ちゃんはここから出る手段として打算のようなものを感じました。今作の秀ちゃんからは箕浦に対する思慕をあまり感じ得ません。
財産に関しても、ずっと閉じ込められて、かたわとして生きてきた秀ちゃんにとって、お金はあまり意味をなすものではないのかもしれません。

前作では、鬼は誰であったのか、様々な考えをめぐらせました。人は誰しも心に鬼を持つ、と自分では結論づけていましたが、今作の鬼は、箕浦…いや私だろうと思い、私は箕浦の中に存在するもう一つの人格で、六道の辻箕浦は死んだのではないかと感じました。
今作の救いは、諸戸道雄さんが天国にいけたのではないかな、と感じた最後です。手を差し出す道雄さんに私は恐怖をみせていましたが、箕浦は手は取らずとも横に立ち、少し微笑むような表情を浮かべ、歩み寄り、二人は共に逝ったような描写に何とも言えない気持ちになりました。上手く表現が出来ません。いい意味ですが、表現が難しいです。
前作は全体的に上品で美しく哀しい、愛がテーマの舞台でしたが、今作は愛よりもその先の欲望、人間の汚さが前面に押し出された舞台だと感じました。
今作の箕浦は、道雄さんの愛を受け入れたのでしょうね。拒絶をしたのは私ですから。

気になったのは、濁った水槽の中に落ちるロープと、椅子のあたりに生える草です。これがこうある理由がわからなくて、ただ、あるだけなのでしょうか。
前作のネズミの入った水槽はある特定のシーンでネズミが動く仕掛けがありましたし、生きた金魚は語られずとも実験動物を表していました。諸戸屋敷のシーンでは小さくネズミが鳴くような、チィチィという音が聞こえて、また、シーンが終わったあとの小道具をホルマリン漬けにしていくのも、今こうして語る私の過去の記憶、思い出を色褪せぬよう保管していくように見えて、ひとつひとつに意味が見えて、安い言葉ではありますが、すごいと感じました。

ここまで書いて、私は前作の孤島の鬼が相当心に残る作品で、好きだったのだろうと改めて感じました。時が立つのは厄介ですね。脳内でとても美化された、美しい記憶になってしまうのです。
前作と今作、違いがありすぎて比べるのは違うと感じるほど、全然別の作品でした。
再演ではなかったのです。

やっぱり、舞台は生物ですね。
その時見たものが全てで、DVDで生の良さはわかりません。
再演といってもやはり変わるものですし、その時観たいと感じたものは観るべきだと、強く思いました。

幸いにも、私はここ最近観たいと思った舞台は全て観ていますし、特別後悔もありません。
これからも好きな舞台を好きなだけ観たいと思います。


初ブログが唐突な感想になりましたが、気の向くまま、好きなことを書いていこうと思います。